日はまた昇る

 ヘミングウェイの「日はまた昇る」という中編小説が面白いのだけど、面白いことだけを覚えていて、内容をはっきりと思い出すことができない。中心人物であるジェイクは、確か戦争で受けた傷が原因で性的不能者になった男だった。ジェイクと、パリに住むその友人たちは、皆でスペインの牛追い祭に出かける。バスク人たちは牛皮をなめした袋に赤ワインを入れており、まるで乳を搾るように口のなかにワインを注ぎ込む。
「中学のときに好きだった先輩がいてね、すごく好きだったことは覚えているのだけど、どういう人だったのかはちっとも思い出せないの」
「バスケ部だった? サッカー部?」
「ううん、確かね、水泳部だった。好きになった場所がプールだったから、学校の、25メートルプール」
  ぼくはジェイクのことを考えていた。はっきりと思い出すことができないが、とても“もどかしい”男だった気がする。女性に対してそういう態度を取るシーンがあった。
「体育の授業で一緒になったのかもしれない」
「でも、学年が違ったから、授業は一緒じゃないはずよ」
「学年が違ったというのは確かなの」
「うん。ジャージの色がちがったの」
  ある人の持つすべての要素を積み重ねていくとその人そのものになるけれど、今回はどうもそういうわけではなさそうだった。
「プールに入る前に、塩素に浸かるじゃない。消毒って言ってさ。わたしはあれがすごく苦手だったのだけど、そこでその先輩がね、『そんなの入らなくていいよ』って言ったの。今思うと全然根拠なんてないのだと思うけれど、それでわたしはすごく救われちゃったのよ。神様か仏様かって思ったのよ。わかる?」
「わかるよ」
  彼女が話しているのは、切り取られたシーンについてであり、先輩個人のことではないから覚えていないのも仕方ないし、先輩が水泳部だというのも単純なイメージに過ぎないと話すと、「そうね」と頷いて、特別興味はなさそうだった。