おてがみかくよ

 年も重ねていくと昔の記憶は曖昧になるばかりで、覚えていることより忘れてしまったことの方がずっと多い。人間の脳は経験の10%程度しか記憶できないらしいと話すと、彼女はコーヒーカップの縁を見つめたまま言葉を並べ始めた。彼女は思い出話に興味がなかった。思い出話は、過去を点で描き出す。それでは不十分だ。大事なのは、現在だ。現在は過去の出来事が絡みあった「至るべき結末」であり、現在を注意ぶかく語ることがすなわち過去を線で描き出すということなのだと彼女は言った。過去はどうあっても現在に影響を与えている。そういう意味では現在とは影響の集大成そのものであり、影響を与えた存在のことを覚えているかどうかなんてどうだっていい。人間の脳の容量なんてどうだっていい。
 私はかつて彼女に手紙を書いたことがあった。女の子へ手紙を書いたことがなく、さらに言うと人から人に送られる手紙というものもそれほど読んだことがなかったので、私が見よう見まねでどうにか作り上げたそれは、およそ練達したものとは言い難く、説明するのも恥ずかしいので詳細は省くが、愛を告げるべき相手へ送る手紙としての凡そ基本的な作法もなっていなかった。ただひとつ、私が当時熱狂していた映画の台詞を無断で借用した箇所があり、その部分だけは石炭にまぎれたブラックダイヤモンドのように光沢を放っていた。私の目の前で手紙を読んだ彼女は、その部分にサッとアンダーラインを引いた。当時、私はそのことがたまらなく嬉しかった。
 カフェを出て、外苑東通りを青山方面へと歩いた。もう夕暮れに入ろうというときだったが、腕時計を修理に出してしまっていて時間が分からなかった。彼女に訊くのもなぜか気恥ずかしく、ぼくは特に話題もなく、さっきのカフェのコーヒーはそれなりに美味しかったのでまた行こうというようなことを話していた。時間が分からないと途端に物事の現実味がなくなる。現実が希薄になり、距離を話していくと、訪れるのは強い浮遊感だ。浮遊感の中で不安になり、私は彼女の手を取ろうと思うが、彼女が以前そのことを私の弱さだと表現したことを思い出してやめた。私の現実味とはつまり社会に属しているということで、社会に属しているということは時間を気にするということだ。彼女とのセックスのとき、私は社会に属していない。小説を書いているとき、私はそのようなことをよく考える。私の書いた原稿が金になり、人々の時間を奪っていく。人を社会から孤立させることで私は孤独を紛らわしている。そして決まって私は浮遊感のことを考える。身体の隅々までヘリウムガスを注ぎ込まれたような、誰かに手を握ってもらっていなければ、ふわふわと浮かび上がって、ゆっくりと地上を離れて行ってしまう。誰かに右手を握っていてほしい。私は浮遊感を恐れないために彼女と過ごしているのか?
 青山一丁目に差し掛かったあたりで、彼女が「どこへ行くの?」と聞いた。私は物想いに耽るあまり、自分がしばらく黙っていたことに気が付いた。「ごめん、歩き疲れたよね?」と私が訊くと、「ちょっと疲れたかな」と彼女は不機嫌に答え、私たちは地下鉄への階段に向かった。私は、彼女が私の手紙に引いたアンダーラインのことを考えていた。

―――――

( ´_`)帰ったら手紙を書くよ

(*'-')誰に?

( ´_`)あなたに

(*'-')そう

( ´_`)一緒に読もう

(*'-')いいね

―――――

手紙を書くよ。