たとえば地球が環境汚染とかで打ち捨てられて全ての人類が別の星に移住するとなったときに、誰もいなくなった静かな地球で幽霊たちは何を思って暮らすんだろう。それでも誰かを恨み続けられるのだろうか。

    目を開けると、真夏の風が優しく吹いていた。風が吹いているのがわかったのは、葉っぱが揺れているのが見えたからだった。日本の夏特有のじっとりとした湿度は感じなかった。湿度を感じるには肌が必要だった。ツタ植物の隙間から鳥が顔を出すのが見え、私は「ハロー」と言った。青い羽の彼女は「ハロー」というような鳴き声を出して、それから「忙しいんでまた後で」というような鳴き声を出して去っていった。私はヒラヒラと手を振ってそれを見送った。
 人類が地球を離れてからどれくらいの時間が経ったのか、とうの昔に時計の止まったこの部屋に残された私にはわからなかった。もともとものぐさだったせいもあって何かに日付を記録することもしていなかった。環境汚染を逃れて宇宙へと脱出していった人類は、次の星を食いつぶして、さらにその次の星を食いつぶした頃かもしれない。人類が去ったあとに地球にわずかに残されていた森は、長い時間をかけてその領域を広げていき、いつしかかつての街の地面を植物の根が這った。地面を這っていた植物はさらに長い時間をかけて、人類が残していった建造物をゆっくりと飲みこんでいった。それは私のいる部屋がある、この元・高層マンションも一緒だった。私はこの部屋でずっと前に殺されて、それからずっとここにいた。
「私はこの部屋でずっと前に殺されて、それからずっとここにいた」
 私は声に出してみた。私はこの部屋から出ることができない。地球からすべての人類がいなくなろうとしたその前日、あの男が私の首を絞め、私の魂はこの部屋にジワリと焼き付いてしまった。それから私は誰もいなくなった地球のほんのわずかなスペースの中で、フヨフヨとした動きをしてみたり、歌ってみたり、たまに窓の外に訪れる動物たちにハローと言ってみたり、色々なことをして日々を過ごした。書棚には読まないままにしていた本が何十冊もあった。レコードのコレクションもたくさんあったが、当然電気は止まってしまっていて鑑賞することができなかった。
 すべての面白い動きを一通り試して、知っている歌を全部うたって、すべての本を十回以上読み返して、すべての楽しいことをやり尽くしたあとの悠久の日々の中で、私は「私を殺したあの男はもう死んでしまったんだろうな」ということを考えた。きっとずっと昔に死んでしまった。どこか遠い知らない星で死んだのだろうな。どんな風に死んだんだろう。おじいさんになるまで生きて寿命で死んだのかな。それともあの男のことだから、誰かの恨みを買って殺されてしまったんだろうか。だとしたら私と同じようにどこか遠くの星のどこかのアパートの一室にその魂が焼きついていて、すべての楽しいことをやり尽くした日々の中でたまに私を殺したときのことを思い出したりするんだろうか。殺された直後はそれこそ怒り狂ったけど、ずっと長い時間が経過して、あの男は私をここに残して遠く知らない星で死んでしまったのだと思うと、怒りはいつの間にか消えて、緑色の星に置いていかれたさみしさだけが残っていた。私はもう何度読んだかわからない小説を閉じ、机の上に置いた。「本当は何も怒ってないんだよ」と小さく口に出した。怒っていないからもう一度お話をしよう。
 チチチという音がして我に返り、窓の方を見ると、こんなところまでリスが登ってきていた。「ハロー、道に迷ったの?」と尋ねると、彼は「こんな高いところまで登ってこれるのは俺くらいだぜ」というような動きをして、それからどこかへと去っていった。
 「ハロー、動物たち」と声に出した。
 ハロー、ハロー。静かな地球に残る誰かの魂。