何かいつもと違うことがあった日だった。遠くにいる友人が急に電話をかけてきたとか、誰か知人が死んでしまったとか。あるいはたまたま買ったチョコボールで金のエンゼルが出たとか。そういったありふれた特別な日の夜に、私は椅子に座って窓の外を見ていた。それは冬の夜で、雨が降っていた。粒が小さくて、それほど強くない、音もなく全てをしっとりと湿らせるだけの雨だ。膝に広げていた本に目を落とし、しおりを挟んで閉じた。特別なことが起きたこの夜には特別な何かが必要かもしれないと思った。
  新品の傘のタグを切り、広げて外に出た。遠くの国道を走る車の走行音は雨のカーテンで減衰し、くぐもって低く届いた。音は水中を通過するときに極端に波が小さくなるのだと、誰かが言っていたのを思い出した。その誰か、つまりあなたはどこかの国のホテルのプールサイドで私に言った。水中に飛び込むと、世界から自分だけが切り離されたような感覚がある。私たちは普段から、世界との距離を音で測っているのだと。

 民家を四軒ほど行き過ぎた。既に深夜だったので、どの家も明かりは灯っていなかった。
 特に行き先があるわけではなかった。5分ほど歩くとファミリーマートがあり、そこでプリンを買って帰ることにした。自動ドアの前に立つと、チャイムが鳴ってドアが開いた。傘を閉じて店内に入った。店内放送で流行のアーティストが何事かを話していた。私のほかには雑誌を立ち読みしている男性客がひとり。レジには60を過ぎた頃の初老の男性が立っていた。プリンを取ってレジの前に立った。店内の調子のいい放送に反して、その店員の手は奇妙なほど震えておぼつかなかった。何かの神経の病気なのかもしれなかった。私は店員の顔のシワや、汚れた爪の先を見ていた。釣り銭を受け取るとき、その震える両手を少しだけ握るようにして釣り銭を受け取った。ありがとうございました、と言う店員の声はあまりにも小さく、音と呼べないほどに空気を少し震わせただけだった。

 買ったプリンを冷蔵庫に入れ、それを明日食べるときのことを考えながらベッドに入った。
 水中に飛び込むと、世界から自分だけが切り離されたような感覚があると、あなたは言った。私は、水中にいる時間は何か特別な時間なんでしょうかと尋ねた。音の届かない、現実から遠く離れた孤独な空間は、世界に対してどんな意味を持っているのかと。あなたは答えた。それはわからない。ある時間が特別かどうかを決めるのは、神様でも物理法則でもない。それがどんな時間でも関係ない。未来の自分がその時間をどのように思い出すか、ただそれだけなのだと……。
  ベッドの中で、明日の私は今日の雨の夜のことをどのように思い出すだろうかと考えていた。3年後の私はどうだろう? 5年後の私はどうだろうか? 私はあのコンビニの店員のように、誰かに向けて囁くようにして小さく「ありがとうございました」と言ってみた。小さく、囁くように口に出すと、どんな言葉も遥か遠く、祈りのように聞こえるのだった。