何が嫌だったの?

<What hurt your feelings?>

 パンケーキを焼いているときにリビングで電話が鳴った。ぼくはコール音に耳を澄まして、確かに電話が鳴っているということを確信したあと、少し迷って、フライパンの火を慎重に弱くした。キッチンを見回して、戸棚の取っ手にかけていたタオルで丁寧に手を拭き、リビングへと早足で向かった。鳴り続ける電話を取って「ハロー、エヴァンスです」と言った。
 「ハロー、エヴァンス」と電話の相手は言った。一般的にはここで”名乗り”があるものだが、相手は名乗らなかった。声からするとケイトかキャスだった。ケイトとキャスは、4番街に一緒に住んでいる仲良しの二人組だった。二人とはもう一年以上も連絡を取っていなかった。「ねえ、今日の夕飯はうちに来ない?」とケイト(もしくはキャス)は言った。ぼくは受話器を持ち替えて、キッチンの方を見てから「ああ、行くよ」と言った。「ポーラは?」と彼女が言った。「ポーラは元気にしている?」
 「ああ、元気にしているよ」とぼくは答えた。彼女の声に重なって、ぼくの耳には、パンケーキに茶色い焼き跡がつくチリチリという音が聞こえていた。加えて、リビングには砂糖が焦げるときのあの直接的な甘い匂いが漂っていた。ぼくは意味なくメモ帳をパラパラとめくって、それからもう一度キッチンの方を見た。「今、パンケーキを焼いているんだ。悪いけど切るよ、そちらには19時には着くから。ポーラも連れていく」と早口で言った。彼女はぼくの言うことが聞こえていないみたいに、変にゆっくりとした言い方で「そんなに焦らないでよ。久しぶりなんだからさ、まずは助走みたいなものが必要じゃない? 会う前の練習というかさ。ねえ。メレンゲ、パンケーキかな? パンケーキだってさ、ちょっと焦げたのがおいしいよ。少し苦味があるくらいの方がさ。甘いだけじゃなくてね。ねえ、ところで、ポーラも連れてくるんだよね?」と言った。ぼくは苛々して相手の名前を呼んで話を中断しようとしたが、今さら「ケイト? それともキャス?」と確認するわけにもいかなかった。ぼくは自分の左手の爪をちらりと見てから「悪いね、人に食べさせるものだから焦がしたくないんだ、切るよ」と言って受話器を置いた。キッチンに戻ってフライパンのパンケーキをひっくり返すと、やはり少し焦げてしまっていた。ぼくは少し迷ったが、もう一枚を焼くことにして戸棚から新しい材料を出した。
 寝室に行くと、ポーラがベッドにうつ伏せに寝転がっているのが見えた。近づいてみると、Cosmopolitanの数ヶ月前の号のグラビアページを広げたままで眠っていた。ぼくは眠っているポーラの耳元に口を近づけて、「パンケーキが焼けたよ」と言った。ポーラはもぞもぞと身体を動かして、寝ぼけたように何かをうめいた。口元に耳を近づけると、「パンケーキ?」と言った。その言い方のお陰で、ぼくはそれほど嫌な気持ちではなくなった。ぼくは眠っている人を起こすのがそれほど嫌いではなかった。

 ぼくたちはパンケーキを食べたあと、いつも通りに仕事をして、ほとんど無為に昼間の暇を潰した。ポーラの方はよくわからないが、ぼくの方の仕事は正直あまりうまく行っていなかった。発注元が納期を間違えていた。愛用していたサンダーが異常音を立てて回らなくなった。回転機の中のシャフトが金属疲労で曲がってしまったらしく、手で修理することは出来なかった。部品が届くのは早くても来週の月曜ということだった。仕事場から帰ると、「仕事はどう?」とポーラが尋ねてきた。「まずまずだよ」とぼくは言ったが、ポーラはあまり興味がないようだった。
 春先とはいえ、夕暮れのストリートはまだ肌寒かった。アルコールを飲めないポーラが車の運転をした。道は空いていて、ケイトとキャスの家には19時の少し前には着きそうだった。運転中、ポーラはあまり喋らなかったが、ハンドルを叩く指の動きで機嫌がいいのはわかった。ストリートは暗くなり始めたばかりでまだ街燈の灯る時間ではなかったが、ポーラは車の前照灯のスイッチを入れた。仕事帰りの男の影が石畳に長く伸びるのを見た。30分ほど走り、4番街の角を曲がった。ケイトとキャスの家は4番街のずっと奥の方にあって、ポーラは道端に眠る猫を轢かないようにしながら、注意深く車を止めた。雨が少し降っていた。ぼくたちは駆け込むようにして玄関に向かい、ドアを叩いて数秒待った。しかし反応はなかった。「ケイト、キャス。エヴァンスだ」とぼくは言った。「濡れちゃう」とポーラが言った。もう一度ドアを叩こうとしたとき、ドアの向こうからクスクスという小さな笑い声が聞こえ、それから「パンケーキを焼いているからちょっと待ってね」と声を掛けられた。「パンケーキ?」とポーラが言った。ポーラは今朝の電話のことを知らなかった。「おい、ふざけるなよ」とぼくが言うと、錠が外れる音がしてドアが開けられた。ドアを開けたのはキャスで、そのすぐ奥にケイトが立って笑みを浮かべていた。ケイトはポーラの姿を上から下まで眺めて、それからぼくの方に向かって「ごめんね、悪ふざけが過ぎたね、でもだって、エヴァンス、あなた今朝の電話がとても冷たかったじゃない?」と言った。「電話? もう、エヴァンスが何かしたのね」とポーラがぼくを見て言った。ぼくは何も言わなかった。「パンケーキはないけど、その代わりミートピザがあるから、まあまあ上がってよ」とキャスが言った。ぼくとポーラは自分とお互いのコートの雨粒を軽く払って中に入った。
 暖房が利きすぎているのか、肌寒い外と違って家の中は暑いくらいだった。しばらく振りに会うこともあり、ぼくとポーラはそれなりに”正しい服装”をしていたが、ケイトとキャスは気の置けない友人に会うにしても少しラフすぎる格好をしていた。ありていに言ってしまえば、彼女たちは少々はしたない恰好をしていた。
 ぼくたちは食事をしながら、仕事のことや、共通の知り合いについて話をした。もう一年は会っていなかったから、話題は探すまでもなくいくらでもあったが、ぼくは乗り気になることができなかった。ケイトやキャスは時折ぼくの膝に手で触れてきて、それをできるだけ自然に払わなければいけなかった。ミートピザはとてもボリュームがあり、脂でギトギトのシロモノだった。ミートピザは早々になくなったが、ドリンクとワインはケイトとキャスがキッチンに向かうたびに無限とも思えるくらいに出てきて、会話に乗り切れない分、ぼくはただワインを飲み続けていた。ぼくたちが座る四人掛けのテーブルの中心には赤色のキャンドルが置いてあった。香料は入っていないようで、ロウの溶ける独特の香りがしていた。ポーラはオレンジジュースを少しずつ飲んでいた。「ああ、おなかいっぱい。久しぶりに会えてよかったわ、ケイト、キャス」とポーラは言った。
「昔のことを覚えている?」とケイトが言った。「どのくらい昔のこと? ハイスクール? それとももう少し先のこと?」とポーラが尋ね返した。「大学の頃のことよね? ねえ、ケイト。あの頃のエヴァンスのことよね? 運動も勉強も一番だった頃の、秀才だった頃のエヴァンス。英文学をやっていた。優等生だった」とキャスが言った。
 夜も深まってきて、話の種も尽きかけているように思えた。帰るには良い頃合いだとぼくは思った。声を出しかけたとき、「ちょっと暑くなってきたわね」と言ってケイトが席を立ち、窓を少し開けて戻ってきた。窓から吹き込んだ風がキャンドルの炎をわずかに揺らした。キャスの長い髪も同じように風に流れるのが見えた。「ねえ、泊まっていったら?」とキャスが言った。キャスは自分の髪を後ろで括るようなしぐさをした。ケイトも「そうね、話したいことがいっぱいあるわ」と言った。ぼくはポーラの顔を見たが、ポーラは満更でもなさそうな表情をしていた。「ちょっとワインを飲みすぎたみたいだ」とぼくは言った。「明日も仕事があることだし、もうそろそろおいとまさせていただこう」と言って立ち上がり、掛かっていたコートに手をかけたが、足にうまく力が入らずにそのまま衣紋掛けごと床に倒れてしまった。ポーラの小さな悲鳴が聞こえた。「ねえ」と再びキャスが言った。「泊まっていったら? エヴァンス。昔の話をしようよ」とケイトが言った。それに同調するようなポーラの声が聞こえた。ポーラではない誰かがぼくの肩に手をかけるのがわかった。床に這いつくばり、床板がグルグルと回るのを眺めながらも、ぼくは何とか絞り出すように「家に帰るよ、ポーラ」と言った。そこで記憶が途切れた。
 気が付くと、ぼくはポーラの運転する車の助手席に乗っていた。ひどく気分が悪く、ミートピザを今すぐ吐き出してしまいたかったが、少し開いている窓から吹き込む夜風は冷たく、心地よかった。「何が嫌だったの?」とポーラが小さな声で言った。「昔のことを話されたのが嫌だったの? 仕事がうまくいっていなかったの? あなた、喚いて大変だったのよ。私、あなたと話をしたいわ。今は話せる? 話をするには酔いすぎている?」 ポーラの声は少しずつ大きくなっていった。ぼくは痛む頭を押さえながら、「せっかくの食事を台無しにしてしまって申し訳ない」と言った。吐き気をこらえるために、助手席のシートの中で身体を運転席側に横向けた。ポーラは前を見つめたまま運転していた。窓の外を行き過ぎる街燈がポーラの横顔を断続的に照らしていた。ぼくは言うまでもなく彼女のことを愛していたが、彼女にぼくのすべてを説明し、そして理解を得ることはあまりにも億劫だった。「大丈夫、家に帰ったらパンケーキを焼くよ」とシートに身体を沈めたまま小さな声で言った。「パンケーキを焼く、大丈夫、パンケーキを焼くから、それを食べてもらえれば、受け入れてもらえればぼくは大丈夫だから」と繰り返した。